一身田の歴史

津市の北部にある一身田町の一部、高田本山専修寺を中心として、大きなお寺や町並みが残る環濠に囲まれた町です。
寺内町は、近畿や北陸を中心に発展しましたが、一身田の寺内町には、多くの寺社建造物や文化財、環濠や伝統的建築物が残っており、通りごとに変化に富んだ町並みとなっています。

寺内町と専修寺

一身田寺内町は専修寺とともに発展し、町の形態を少しずつ変化させ現在まで歩んできました。
広く一般に開放された境内では、参詣の人々がくつろぎ、「本山さん」「高田さん」など親しみをこめてお寺を呼ぶ声が聞こえ、静かでゆったりとした魅力にあふれています。

寺内町の歴史

寺内町地図

「一身田」は珍しい地名ですが、その由来には諸説あり、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に対して特別にその身一代に与えられた田からきたとも、律令制度の「三世一身の法」で与えられた田からきたとも言われています。
人々が一身田に集落を形成しだしたのは、寺内町が生まれる前のことであり、当時は農村集落であったと考えられています。それを示す最古の資料として、一御田神社の棟札に記録が残されています。

一身田が大きく変わったのは、1464年、真慧上人が東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院(専修寺の前身)を建立してからのことです。その後、栃木県の高田にあった高田専修寺が戦火にみまわれて、真慧上人が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となりました。

一身田

寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、1592年の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられます。
17世紀の中頃までは、現在の区域の半分足らずの大きさでしたが、1658年に津藩の二代藩主である藤堂高次の四女いと姫が専修寺の門主に輿入れするにあたり、当時の専修寺の西側の土地を寄進したことによって、現在の寺内町の形となりました。

明治時代になり、宗教団体が境内と墓地以外の寺領を持つことを禁じる法律が制定されたため、専修寺も多くの寺領を失いました。1874年には、赤門・黒門・桜門の三つの門がすべて売りに出されるなど、寺内町も大きく変わっていきました。

観光スポットとしての歴史

江戸時代にも今と変わらぬ旅の習慣があり、「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど伊勢参宮は人々の憧れでした。
京都から伊勢までの参宮道中の名所を記した「伊勢参宮名所図会」には、専修寺の広い境内の様子や、参詣に訪れる人々の姿が詳しく描かれています。また、大正時代には、鮮やかなカラー刷りのパンフレットに春のうららかな境内の様子が描かれています。
専修寺は、信仰の場であるとともに、多くの参詣客を迎えて賑わう観光スポットとしての役割も担っています。

江戸時代観光